何故生きるのか?

自殺する事で、嫌な事から全て逃げられるような気がする。

だから自殺したい…そんな安直な考えだった

安易に『自殺したい』と漏らす私に

周囲は『辛い事もあるけど死んじゃったら楽しい事も経験できないよ?』と

お決まりのように皆口を揃えて言ってくる。

求めているのは、そんな言葉じゃない…

別に、辛い思いをせずに済むのなら楽しい思いもしなくて構わない…

心の中で、そう反論している

それと同時に『そんなに死にたいなら勝手に死ねばいいじゃん』と思うが

結局、苦しいのも嫌、痛いのも嫌なので自殺は出来ない。

なので自殺できている…という言い方は不適切かもしれないが

そういった人達は、想像を絶するほど辛く、苦しい思いを

してきたんだろうなと感じる。

いつの日か、というものは一生懸命に生きたものが神から与えられるものなのだと

思うようになっていた。

『憎まれっ子世に憚る』『美人薄命』そんな言葉も、この定義に関連している

と、自分で勝手に思い納得していた。

なので、自然と友人の死や親戚の死を目の当たりにしても

良い人だったから…頑張り屋だったから…と思うだけで

さほど悲しさを感じなかった。

全くか?と問われれば、少しは悲しい…

ただ周囲が泣きじゃくるほど涙が出る訳でもない

悲しいのも、自分がその人と二度と会えないから寂しくて悲しいだけ

その人に対してではなく自分の都合で泣いているだけ

涙は自分の為じゃなく人の為に流すもの、そんな考えだったからなのか

余計に悲しさが紛れていた。

母親が亡くなる事を想像しても、母の手料理が食べられなくなるだけ

とりあえず亡くなってから、あーしておけば良かったとか思わないように

自己満足程度に親孝行はしているつもりだ

母曰く『親よりも先に死なず、元気に生きてていてくれる事が何よりもの親孝行』

そう教えられてきた。

幸い、その願いは今のところ叶っている。

そんな中で、自分にとって…世間にとっても大きな出来事があった

志村けん さんの死だ

あれほど世間から愛された人も、そう居ないだろう

志村けんは老若男女問わず皆から愛された根っからのコメディアンだと思う

そんな志村さんの意を汲むなら悲しむよりも笑ってくれ

と言うんじゃないか?と思い

今では8時だよ全員集合を観ながら悲しさと寂しさを抱きつつも

幼い息子や妻と一緒に腹の底から笑わせて頂いている。

そんな大きな存在を失って、ようやく死がどういうものなのか気付いた

大切な人を失う事で、これ程悲しい、自分自身が悲しい…だから泣く

それでいい

自分を大切に想っていてくれる僅かな人を悲しませない為に生きるべきなのだと

考えが変わるようになりました。

大切な人を失う苦痛を自分を想ってくれる人に味合わせない為に生きるのだと

何十年掛かって、ようやく気付かされました。